= 徒然の漢詩鑑賞 =

  杉篁庵(さんこうあん)主人の漢詩鑑賞ブログです
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早發白帝城

だいぶ間が開いてしまったが、少し酒の歌から離れて李白の詩を見てみる。



 早發白帝城  李白
朝辭白帝彩雲痢
千里江陵一日還。
兩岸猿聲啼不住, (啼不住=啼不盡)
輕舟已過萬重山。 (輕舟已過=須臾過却)

 早(つと)に白帝城を発す
朝(あした)に辞す白帝 彩雲の間
千里の江陵 一日(いちじつ)にして還る
両岸の猿声啼いて住(や)まざるに
軽舟已(すで)に過ぐ 万重(ばんちょう)の山

白帝城:現在は中国重慶市奉節県の長江三峡の一つ瞿塘峡(くとうきょう)に位置する地名。長江沿いの崖の中腹に建っている城。
彩雲:朝焼け雲。
江陵:現在の湖北省江陵。長江の下流。
還:「帰る」「行く」。
啼不住:絶え間なく啼く様子。
萬重山:幾重にも重なっている山々、の意。

朝早く、朝焼け雲のたなびく白帝城に別れを告げて、千里先の江陵まで舟はわずか一日で進んでいく。切り立った両岸から絶え間なく聞こえる猿の啼き声の続くうちに、私の乗った小舟はいつの間にか幾重にも重なった山々の間を通り過ぎていた。

・各々の詩の殆どの制作年代が分っている同時代の杜甫とは対照的に、李白の詩は、多くが作られた時期や背景が不明である。それは時局に触れた詩が少ないという李白の創作態度にもより、また初めて全集が編纂されたときに創作年代を無視してテーマ別に並べたという事情にもよるという。
この詩も成立事情として、李白が25歳、故郷の蜀から中央に旅立つときの作という説と、夜郎に流される途中、白帝城で恩赦にあい釈放された59歳の時の作という両説がある。
私が高校時代習った時は、青年が未来に向けて出立するときのときめきを詠んだものとされた。こちらが通説であったようだが、現在は赦免の時とする説の方が多いだろうか。

・二十五歳の時の詩とする説。
李白の生母は太白(金星)を夢見て李白を懐妊したといわれ、名前と字はそれにちなんで名付けられたとされ、5歳頃から20年ほどの青少年期、蜀の青蓮郷を中心に、読書に励むとともに、剣術を好み、任侠の徒とも交際して活動していた。725年(開元13年)、二十五歳の頃、蜀の地を離れ、都へと向かう。この詩は「峨眉山月歌」に続いて長江を下るときの詩とする。

「峨眉山月歌」
峨眉山月半輪秋  峨眉山月半輪の秋
影入平羌江水流  影は平羌の江水に入りて流る
夜發清溪向三峽  夜清渓を発して三峽に向ふ
思君不見下渝州  君を思へども見えず渝州に下る 

この説のとき、「一日還」の「還(「帰る・もどる)」というのが不自然ともいわれる。「還」とは、本来最初の出発地点に引き返すのをいうが、「痢廚留い蓮攵緤申集渮茵(刪潸關彎闤〔還〕環鐶鬟都班斑頒般蠻顏姦菅攀頑豻〔山〕鰥間蕑艱閑〔痢葉鷴慳孱潺殷斒斕湲綸眅憪擐轘跧扳瞷鬘黫訕澴靬患獌玢豩寰嫻癇黰僝疝灣)であるから、「痢Υ圈山」と押韻上、「還」が通意の「行く」として使われたと解される。
「一日還」は、川の流れがいかに早いかを表すとともに、浮き立つ心を表わす辞と捉えられよう。

・五十九歳の時の作という説。
玄宗の第一六子永王が粛宗の命令を無視して軍を動かし謀叛とされた。その時李白(759年59歳)は永王の幕僚となっていたため、罪を得て夜郎にながされる。その途中で赦免され、白帝城から帰途についた。この詩は、その時の開放された喜びにうきうきとする心情をうたうとする。
李白に、遡上の難儀から三日三晩で髪の毛が白くなったとうたう「上三峡」もあり、「千里江陵一日還」には三峡遡上の経験あってこその想いという。

「上三峡」 李白
巫山夾青天 巴水流若茲
巴水忽可尽 青天無到時
三朝上黄牛 三暮行太遅
三朝又三暮 不覚鬢成糸

巫山青天を挟み 巴水流れること茲の如し
巴水忽ち尽くすべし 青天に到る時無し
三朝黄牛を上り 三暮行くこと太だ遅し
三朝又三暮 覚えず鬢糸と成る    

巫山は青空をさしはさんでそそり立ち
巴水はその名のとおり巴字のように曲がりくねって流れる
巴水はやがて上り尽くすこともできようが
青空へは到達する時がない
三日間、毎朝、黄牛峡をさかのぼる
三晩かかっても舟足はあまりにも遅い
三日と三晩
知らないうちに髪は糸のように白くなっててしまった

・「千里江陵一日還」について
白帝城から江陵までの千里の距離を一日で舟航することについては、六朝時代、宋の盛宏之の『荊州記』に「朝に白帝を発し、暮に江陵に到る。凡そ千二百余里。」後魏、酈道元の『水経注』には、「朝に白帝を発し、暮れに江陵に宿る。其の間千二百里」とある。
しかし、白帝城から江陵まで、距離は四〇〇キロぐらい、長江の水流は、三峡の最も速いところで時速二四キロといわれるから、平均時速は、おそらく二〇キロ以下であろう。二〇キロとしても、四〇〇キロ下るには二十時間かかる。「一日」といっても、舟旅は日のあるうちのことであろうから、これは中国流の誇張表現ともみられる。

・「猿聲」について
「断腸の思い」の故事や「巴東三峡、巫峡長し。猿声三声、涙は裳を沾(ぬ)らす」(『水経注』)のように、古来、三峡の猿声は悲しみを誘うものであった。
故郷の人々と別れる悲しみの象徴とも、無罪放免となった李白にとって悲しかるべき猿声も祝福の声と聞こえるとも解される。

・対の表現について
「‘白’帝」「‘彩’雲」という鮮やかな色彩の配合、「辞」と「還」の動詞の照応、「千里」というはるかな空間と「一日」というわずかな時間の結合がもたらすスピード感、「軽」「重」の対、これらによって、その心情が鮮やかに表出されている。

舟出の朝の美しく、さわやかなようすに、
江陵までのあまりに軽快な舟旅、
悲しみの極みと言われる猿の声も耳に快く、
まことに、爽快な舟旅だという。

14:39 | 李白 | comments(1) | trackbacks(0) | pookmark
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コメント
はじめまして、畠山猿声と申します。『猿声』は書号です。まさしくこの『早発白帝城』から頂いたものです。四十の手習いで始めた書道でしたが、幸い書号を付ける事となり、本来、師から一字貰うのが普通のようですが、一字は自分の名字の字と重なり、もう一文字は、多くの弟子が使用している為、下にもってくる字に苦慮し、結局、自分の好きな雅号を考えて良いと云う事になり、この雅号を選びました。師も驚いたようですが、良い雅号だと褒めて頂き、使用しています。
2010/03/15 11:50 PM by 畠山猿声
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